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yoshimi_tsuneda 2009年10月09日(金) 02:17:49
神楽
神楽となれば皆様にも色々なイメージがございますでしょうが..ULTIMATE、即ち「究極の」とか「統合的な」とかの意味合いを持つ訳ですが..少し太鼓と神楽の深い繋がりを説明しなくてはなりませんな..。
太鼓と言う楽器は日本に伝承された頃、(それは遠い遠い昔の事ですが)その頃は楽器としての扱い方では無く、即ち神具、祀られる対称としての有り方が発祥ではないかと言うのが定説となっております..で「かむくら」と呼ばれる神儀..(これはどんなものかと申しますと..神座、即ち年頭等に易占の座を設けて神を降臨させる、その神具として太鼓を置き太鼓打ちに叩かせ..その演奏中に口から発せられる言葉や憑衣状態の体を見て神の言葉とし、その年の吉凶を占った)それがやがて神楽の発祥とされていく訳でございます。
即ち神楽という物は元来神との交わり、寺院や仏閣との宗教的儀式の総称でも合った訳ですが、やがてそれがエンターテイメント性を持ち娯楽としての色合いを強めて行き江戸時代あたりから現在のあの神楽のイメージと重なり..郷土性豊かな土着的な芸能と合い結んで、様々なお祭りに欠かせない行事や催し物となっていく訳でございます。
このように現在神楽と呼ばれる物は大きく二つの流れに総括されると申せましょう、一つは所謂宗教的行事としての神楽、(これを里神楽と申します)、もう一つはおかめやひょっとこ、狐等の「もどき」と呼ばれるキャラクターと合い交えて芸能的な面を発展させて言った大神楽(元来此の太神楽は正式には代の字を使う訳でございます..即ち里神楽の代わりとしての在り方)..で、江戸時代以降..里神楽よりは太神楽が身近な芸能として我々の意識に植えられて参る次第でございます。
ちなみに此の太神楽の大は、里神楽の代わり..つまり代神楽、という字がもともとあてはめられたところからも..その発祥は鎮魂、祈祷、即ち基は神との対話、或いは神具としての在り方にあるのだと言う事は此の流れを見ても頷けるのである。
で、我々鼓絆の神楽は勿論楽しくエンターテイメント性を重視した構成ではありますが、里神楽の深遠さをも表現して参ろうと二つの流れを統合した..究極の神楽と言う意味を含めましてULTIMATEの文字を使っている訳でございます
序破急
普通物語の推移というもんは.起承転結の流れで語られ、決をもって..つまり集結と言う、感覚から言えば..直線或いは、曲線上で演じられる事が多いのだが..鼓等に於いては、(或いは純邦楽等に於いては)..序破急(じょはきゅう)という構成で演奏或いは演ぜられる..これは序から急に向かい円運動と言うか..再び序に戻り永遠に繰り返すといった認識か..。
で、此の運動の中に突如として沸き上がる..此の状況を花と言うのだ..。
なにかこう感極まるというか..鳥肌が立つというか..「あの人は花がある」.そんな感じであろうか..。
舞台に立つもの、そして演奏する者..すべからず此の花がある..という感じが大切である、人に言わせれば.それは一種のオーラとも表現されるのだが..華やかさ、とは又違うものだ..つまり花のある役者.花のある演奏..すべからず..全てが望む物だろうが..僕の好きな言葉にこういう言葉がある。
「花は他人の心に咲かすものではない、又、自分の心に咲かすものでも無い..花は他人と自分の間に突如として咲くものである..」。
そう..なにか崇高な..なにか..である。
伝統と調和
先々日は鼓絆の打ち込み、昨日は伝統の楽曲を昔のメンバー達と打ち込みでございました、で、鼓絆は当然、今、現代の太鼓、しかしながら伝統の曲、等になりますと400年、800年前にその起原が元譜として残っている、等の楽曲も在る訳です。
皆様の中にもお稽古事や習い事をなさってらっしやる方もおいででしょうし..所謂CLASSICというジャンルの方もおいででしょう..何が言いたいかと申しますと、すべからず、此の伝統という領域には即ち..「決まり事」と言うものがある訳です..決まっている事だから変えてはいけない..と言う奴ですな。
和太鼓にも色々とありまして..例えば「右手を中心にして打つ」..これなぞはやはり西洋音楽の打楽器奏者には不可解な代物とも言えます、先日も「何故左手はだめなのか?」..と、まあ..一つ間違えれば差別問題にも繋がってしまう此の問題..私らも「右手で」と.師からは頂いている訳で、そう聞かれますと「駄目だから..駄目なの!」としか答えようが無い訳です..、
まあ理由の幾つかは教えて頂きましたが..例えば左手で打つ、と言うのは「去る手(さるて)」つまり不祝儀を表す、であるとか.天地陰陽五行の影響から..右手で強く打つのが天!そして左右で弱く打つのが地!(テレツク)と譜面に使う手と強さまで指定されまして、(反面これを決まった手で打つと揃って美しい訳ですが)どうして?もっと楽に打てないか..と考えた事も確かにあった訳です。更に言えば..その不自然さ..で在るからこそ..人に非ず(ひとにあらず)..即ち神の領域の一端を表現する事が出来る...とも。
そこでもうちょっと調べて見た所、どうも此の考え方は中国方面から流れて参った様です、..それまでの我が国は..と言えばどちらかと言うと左優先の在り方だった様ですな..思想的に。
従って左右の打ち方に関しては根本的には執われる事は無い..と言う事でしょうか。
鼓絆..此の絆と言う解釈、これは我々は「程よい距離感」と解釈しております..近からず遠からず、..そう言った意味では..鼓絆は今の太鼓..そのような事に執われる事はございません、反面、又、伝統の曲もやはり良い距離を保ちつつ「決まり事だから..それはそれで、きちっと知って行こうじゃないか..」..と大きく受け入れて行く..そんな太鼓の姿が望ましいかな..とも思いました。
まあ..その聞いて来た方も伝統に関してはrespect感ももっておるようでしたので..すんなりと話は理解したようです..、そんな事も納めつつ..伝統の曲等も演奏したい..そう思っております。
「ROOTに対するrespect感を失ってしまったもの..それは時として戻る場所のない有る種の淋しさのようなものがありますな演奏に..別に古きゃ良いってもんではございませんが.」.。
鼓絆の神楽
鼓絆のネ−ミングは結成当時西野のアイデアで決定した、..鼓は古今東西ありとあらゆる打楽器を意味し、しいてはその打楽器から産まれる鼓動、リズムを現している。
そして絆は文字通り切っても切れない縁という意味、しかし更に深い意味合いから「程よき距離感」という意味をも含むものだ。
鼓絆..「つまり打楽器による程よき距離感」..近からず遠からず、..勿論鼓絆は和太鼓を中心とした演奏を展開する訳だが..そこに、つまり和太鼓の伝統、様式にとらわれず自由な発想に準じて演奏して行こうという意味が込められている。
従って我が国伝統の和太鼓の楽曲ばかりが演奏される訳では無く..そこには程よき距離感としての他の国との太鼓曲との融合も計られる訳でも有り..楽曲の領域も多種多様に渡る。
これは昔からの思いでもあったのだが..自身のアイデンティティとしての着地点をしっかりと持ちつつ..発展させたいという..そんな意味も込めて..鼓絆とした。