李舜臣率いる朝鮮水軍は5月7日に出撃して以来、慶尚道南部の海域で連戦連勝しており、朝鮮水軍は巨済島以西の制海権を掌握し、巨済島以東の海域で日本軍のシー・レーンを断続的に遮断した。最前線の小西行長は朝鮮海峡の補給が混乱したことで兵站が苦しくなったため、小西軍は平壌を防衛する態勢に方針を変え、物資の調達に力を注いだ。平壌陥落を聞き鴨緑江への進撃を促していた秀吉であったが、6月下旬になってようやく海峡での敗北と、それに伴う輸送の混乱を知り、脇坂安治、加藤嘉明、九鬼義隆の三大名に朝鮮水軍の攻撃を命じた。
この海戦は制海権の掌握を目標に据えた初めての日朝両水軍による艦隊決戦であった。
この海戦は制海権の掌握を目標に据えた初めての日朝両水軍による艦隊決戦であった。
三大名は釜山浦に集結したが、功名に逸った脇坂安治は抜け駆けをして7月初旬に巨済島へ単独出撃をした。日本水軍は大型層楼船7隻を含む70隻余りの大戦力を動員している。
一方、加徳島や巨済島周辺に日本船が出没するとの情報が入っていた李舜臣は麗水の左水営を出撃し、露梁津で慶尚右水軍、全羅右水軍と合流した。朝鮮水軍の戦力は亀甲船11隻を含む60余隻であった。そして巨済島から加徳島への水路である見乃梁に行こうとしたものの風が強かったため船を進めず、固城半島の唐浦に停泊した。その時に民衆が70隻余りの日本船が見乃梁に停泊していると李舜臣に告げた。ここにおいて、李舜臣と元均との間で作戦を巡って対立が起きた。元均は今すぐにでも日本船を攻撃するように主張したが、李舜臣は見乃梁の海峡の狭さと暗礁の多さを考慮して大海に日本軍を誘い込んで撃つことを主張した。元均は考えを曲げなかったために李舜臣は元均を批判している。
李舜臣は日本船を見乃梁から閑山島の沖合に誘い出すために囮船数隻を日本軍に近づけた。すると計画通り日本の兵船が銃を乱射しながら追撃してきたため、囮船は撤退しながら閑山島沖合に誘い出した。李舜臣の策に引っ掛かった日本水軍は沖合に激しい勢いで迫ってきた。李舜臣は島の影に待機させておいた水軍に鶴翼の陣*1を布かせて日本軍を包囲した。朝鮮水軍の激しい攻撃を受けた日本水軍は海峡に退却しようとしたが、この時潮の流れが変化したために押し戻されてしまった。李舜臣の作戦計画は潮の流れまで計算されたものであった。この海戦で脇坂は何とか脱出できたものの日本水軍は壊滅した。日本軍は59隻を失ったが、朝鮮軍は4隻を失うのみであり、朝鮮水軍の完勝であった。
勝利を収めた朝鮮側は、全羅道、忠清道南部など西海岸各地を引き続き保持した。一方の日本軍は、目論んでいた西海岸を北へ抜けるルートの確保に失敗した。更には穀倉地帯である全羅道侵攻を断念し*2、朝鮮側が海峡の制海権を握ったことによって、日本本土からの補給も非常に困難になった。海の航路を確保出来なかった日本軍は極めて短いうちに補給を欠くようになり、物資の欠乏による深刻な苦しみを受けていくことになる。前線の小西行長は西海の水軍と合流できなかったことで、駐留していた平壌からの進撃を断念せざるを得なかった。
この海戦の衝撃は大きく、豊臣秀吉は、自身の指示があるまで海戦を避けること、深追いをしないようにすることなど水軍の戦略を変更せざるを得なかった。水軍の敗退と朝鮮各地で決起した義兵の攻勢を聞いた秀吉は、7月15日付の朱印状によって年内に明国境まで進撃するという「六月三日令」も凍結した。
イギリス海軍・海軍大将を務め、バス勲章受章者でもある、海軍戦略家のジョージ・アレキサンダー・バラード(1862-1948)は、李舜臣の勝利を賞賛している。どのように賞賛しているか、George Alexander Ballard, The Influence of the Sea on the Political History of Japan (1921), Kessinger Publishing ,2009,P57より一部引用。
この勝利は、偉大な朝鮮人提督の最高の偉業である。6週間という短い間に*3、李舜臣は、軍勢の結集、敵軍の殲滅、敵を徹底的に崩壊させる神々しい策略など、全ての海戦史において、勝る者のいない成功を連続で成し遂げた。ネルソン*4、ブレイク*5、または、ジャン・バール*6でさえも、李舜臣以上のことは出来きなかった。李舜臣の名声が母国以外には届いていないことを残念に思う。公平な審判を下せる者で、李舜臣が生まれながらの統率者であることを認めない者はいない。
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