用語としての「サウド家のアラビア」である。
アラビア語で、المملكة العربيّة السّعوديّةである。
「サウジアラビア」については、ウィキペディアのほうが、ずっと詳しいので、そちらのほうを参照するのが望ましい。
アラビア語で、المملكة العربيّة السّعوديّةである。
「サウジアラビア」については、ウィキペディアのほうが、ずっと詳しいので、そちらのほうを参照するのが望ましい。
サウード家とも表記される。
1744年の「サウジアラビア王国」建国にいたるまで、アラビア半島の一地区の領主の一家だった。
1932年、サウジアラビア王国成立以来、国名に「サウド家の〜」を入れ、かつ国王の地位を独占し、かつ閣僚の地位もぼほ独占するような状態であった。州の知事は、サウド家の者でなければならないとされている。
2007年現在、サウド家は、1万人以上がいるとされている。
1744年の「サウジアラビア王国」建国にいたるまで、アラビア半島の一地区の領主の一家だった。
1932年、サウジアラビア王国成立以来、国名に「サウド家の〜」を入れ、かつ国王の地位を独占し、かつ閣僚の地位もぼほ独占するような状態であった。州の知事は、サウド家の者でなければならないとされている。
2007年現在、サウド家は、1万人以上がいるとされている。
1744年に、サウド家のムハンマド・イブン・サウードが、現在のサウジアラビアの領域あたりに、王国を作った。1802年に、イスラム教の聖地、メッカを領域に入れる。1818年に、オスマン・トルコによって滅ぼされる。1824年に、再び、サウド王国が再興するが、1891年に滅びる。
サウド家のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードが国王として、1932年に、サウジアラビア王国が成立する。
サウド家のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードが国王として、1932年に、サウジアラビア王国が成立する。
国教は、イスラム教ワッハーブ派である。
ウィキペディアによれば、サウジアラビア国民は、宗教の選択が許されずイスラム教ワッハーブ派を信仰することになっていたとされている。
1991年の湾岸戦争後は、他の宗教の信仰も認められたとある。
ウィキペディアによれば、サウジアラビア国民は、宗教の選択が許されずイスラム教ワッハーブ派を信仰することになっていたとされている。
1991年の湾岸戦争後は、他の宗教の信仰も認められたとある。
現在の元首
アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アールサウード国王
アラビア語表記 عبد الله بن عبد العزيز آل سعود
英語表記 Abdullah bin Abdulaziz al-Saud
日本語文献では、「アブドゥラ国王」「アブドラ国王」と表記されている。
「アールサウード」が姓である。「ビン・アブドゥルアズィーズ」が、「アブドゥルアズィーズの息子」という意味の父称である。
2005年8月1日より就任。
それ以前も、前国王の脳卒中で倒れた1995年より摂政として、政治の実権を握っている。
ウィキペディア「アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウード」を参照のこと
アラビア語表記 عبد الله بن عبد العزيز آل سعود
英語表記 Abdullah bin Abdulaziz al-Saud
日本語文献では、「アブドゥラ国王」「アブドラ国王」と表記されている。
「アールサウード」が姓である。「ビン・アブドゥルアズィーズ」が、「アブドゥルアズィーズの息子」という意味の父称である。
2005年8月1日より就任。
それ以前も、前国王の脳卒中で倒れた1995年より摂政として、政治の実権を握っている。
ウィキペディア「アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウード」を参照のこと
過去の元首
初代
アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード
アラビア語表記 عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود
英語表記 Abdul Aziz bin Abdul Rahman ibn Faisal Al Saud
日本語表記では、「アブドゥルアズィーズ国王」「アブドルアジス国王」とも表記される。
1880年生まれ、1953年死去
1932年、サイジアラビア王国建国により、国王就任。
ウィキペディア「アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード」を参照のこと
第二代目
サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ
アラビア語表記 سعود بن عبد العزيز آل سعود
英語表記 Saud bin Abdul Aziz
日本語文献では、「サウド国王」とも、表記されている。
1902年1月12日生まれ、1969年2月23日死去。
初代国王死去にともない、1953年国王就任。1964年、譲位により退位。
初代国王の子。
在任中、奴隷制度の廃止とすべての奴隷の解放が、布告される。
サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ
第三代目
ファイサル・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール=サウード
アラビア語表記 فيصل بن عبد العزيز آل سعود
英語表記 Faisal ibn Abdul Aziz Al Saud
日本語文献では、「ファイサル国王」とも、表記されている。
1906年生まれ、1975年3月25日、暗殺により死去。
1964年11月2日より、兄サウド王からの譲位により、サウジアラビア王に即位。
女学校の設立により、女性の教育の権利に貢献したとされる。また、1965年に、反対意見の多い中で、サウジアラビアでのテレビ放送を開始する。
1973年10月17日、サウジアラビアの石油の値段を4倍に上げ、サウジアラビア石油を市場に出すのを減らし、かつ他の石油産出国に協力をえて、世界的に「石油危機」が起こることとなった。
1975年3月25日に、甥のファイサル・ビン・ムサーイドに射殺される。兄が射殺されたことの逆恨みからの単独犯行とされている。犯人の甥、ファイサルは、6月に公開斬首刑に処せられた。
ウィキペディア「ファイサル (サウジアラビア王)
第四代目
ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ
アラビア語表記 خالد بن عبد العزيز آل سعود
英語表記 Khalid bin Abdul Aziz
1912年生まれ、1982年6月13日死去。
第三代目のファイサル国王暗殺の直後に、即位する。
日本語文献では、「ハーリド国王」「ハリド国王」とも表記されている。
1975年に、アラブ首長国とオマーンの領土紛争を仲介して、解決に至る。
ウィキペディア「ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ」
第五代目
ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ
アラビア語表記 فهد بن عبد العزيز آل سعود
英語表記 Fahad bin Abdul Aziz Al Saud
1923年生まれ、2005年8月1日死去
日本語文献では、「ファハド国王」と表記されている。
ウィキペディア「ファハド・ビン・アブドゥルアズィーズ」を参照のこと
・外務省資料でも、君主制となっている。まだ、立憲君主制とは認められていない。
・1993年3月1日に、憲法にあたる統治基本法が制定されるが、それまでは、議会も内閣も選挙もなかった
・統治基本法制定後、議会と内閣をかねる諮問評議会および、地方議会が、設置され、選挙で選出された構成員のもと、成立するとされる。
・2005年2月に、初の地方議会選挙が行われた。
・国内の13州の知事は、勅任となり、サウド家以外からは、選ばれない
・女性の参政権はないが、女性の副大臣が、2009年2月に登場した。
・2009年現在、ファハド国王は、女性の参政権について、前向きな検討課題であることを、マスコミにアピールする。
・1993年3月1日に、憲法にあたる統治基本法が制定されるが、それまでは、議会も内閣も選挙もなかった
・統治基本法制定後、議会と内閣をかねる諮問評議会および、地方議会が、設置され、選挙で選出された構成員のもと、成立するとされる。
・2005年2月に、初の地方議会選挙が行われた。
・国内の13州の知事は、勅任となり、サウド家以外からは、選ばれない
・女性の参政権はないが、女性の副大臣が、2009年2月に登場した。
・2009年現在、ファハド国王は、女性の参政権について、前向きな検討課題であることを、マスコミにアピールする。
人権においては、アムネスティ・インターナショナルらが、非難を加えている
・女性は運転免許が取得できない
・女性の結婚、就職、旅行など全ての行為について、父またはその男兄弟、夫などの「男性保護者」の許可が必要である
・夫婦関係外の性関係に対しての罰としての殺人は、処罰されない
・裁判はアラビア語で行われ、外国人には通訳がつけられない場合が多く、冤罪の危険性が高い。
・赤ちゃんがミルクで気管を詰まらし死亡した事故で、メードのスリランカ人少女が殺人罪で死刑判決を受け、アジア人権委員会やスリランカ政府の中止要請にも関わらず、斬首刑になった。
・女性は運転免許が取得できない
・女性の結婚、就職、旅行など全ての行為について、父またはその男兄弟、夫などの「男性保護者」の許可が必要である
・夫婦関係外の性関係に対しての罰としての殺人は、処罰されない
・裁判はアラビア語で行われ、外国人には通訳がつけられない場合が多く、冤罪の危険性が高い。
・赤ちゃんがミルクで気管を詰まらし死亡した事故で、メードのスリランカ人少女が殺人罪で死刑判決を受け、アジア人権委員会やスリランカ政府の中止要請にも関わらず、斬首刑になった。