文鳥
満を持して漱石先生です。早く書こう書こうと思いながら積読が消化されてなくて後回しになっておりました。
お勧め度:20
難易度:中
このへんEauoiの選び方がはっきり出てると申しますか、「ま〜たやってるよ飽きないねえ」とお思いの方もいらっしゃるかとは思いますが、だってこう云うのが好きなんだから仕方ないじゃありませんか、貴方。
平成の御世にあって、日本近代文学の大元締めは夏目漱石ということになっており、夏目漱石の代表作は『こゝろ』(お勧め度:15、難易度:易)ということになっております。まあ、理由のないことではないのです。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『虞美人草』あたりの大ヒット。芥川龍之介を筆頭に、中勘助、内田百痢∋田寅彦などなど存在感おびただしい門下生を世に送り出したこと。そして誰も疑う余地のない英文学漢学国文学書画骨董の広大無辺な教養、豊かな語彙を縦横無尽に駆使した色鮮やかな文章、小説においては人物の陰影深い造形、染みとおった知性、繊細な感情、ひたむきな倫理観。どのひとつとして、夏目漱石が一流の書き手であることを裏切りはしません。そして『こゝろ』は漱石の長編のなかでは最も構成が鮮明であり、文章が透明であり、テーマが自明に語られた、完成度の高い作品と言ってよいでしょう。しかし、『こゝろ』に漱石の持ち味が十分出ているかと問うなら、否と答えざるをえません。いったい『こゝろ』の文章を褒める人は、もともとが鷗外党なんじゃないかと思います。『こゝろ』の文章、いいんですけど、鷗外みたいな文章なんですよ。簡潔明瞭で曖昧な部分がない。と言えば聞こえはいいですが、曖昧にならざるをえない部分を削ぎ落とすことによって明瞭に見せるという、鷗外の悪いところを受け継いでるような感じがいくぶんあります。そして「先生」があまりに自分のことしか考えてなくて、先生とKで取り合いになった舞台裏はまったく知らされることなく罰だの償いだのと翻弄される奥さんこそいい面の皮だという批判も完全に正しい。このあたり想像するに、漱石先生は自分の小説が完成されたものとして書かれることを期待していなかったのではないかと思います。つまり何か語りたいテーマがあって、結論を出してからそこに向かうように全体を設計するのではなくて、書き進みながら考えて、結末が来てしまったらそれが結論になる。思考実験に近いと申しましょうか、考えるために書いたんだろうなという感じ、このあたりの長編にはかなり匂います。そして晩年の芥川と同様、晩年の漱石は体力の限界によって作品の限界を規定されていたようです。と言うか『猫』の時点で既に、親友子規を失って気力の衰えること甚だしかった金之助先生を見かねた虚子が「気晴らしに面白おかしい小説でも書いてみては?」と勧めたという、つまり力尽きる寸前のところから漱石の文学は始まってるんです。体調が上向きのときは気分も上向きになったかもしれませんが、消耗と衰弱の気配はキャリアのほとんど全部を薄雲のように覆っています。ギャグ漫画のはずの『猫』にしてからがそうなのです。それが『こゝろ』にあっては、これどうも、「俺はこんなにひどいエゴイストで、妻のお前には散々苦しい目を見せてきた。この上は首でも吊るしか償いようを思いつかない」という妻鏡子さんに向けた気持ちが出ちゃってるんじゃないかと思いますがどうですかね。力尽きると現実の身の回りのことにしか考えが及ばなくなるってパターンは、アクティーにも太宰にもありました。
何ですか、例によって話が迷走していますが、つまり『こゝろ』が代表作と言われると首が傾くんです。よく言われる前期三部作と後期三部作では『彼岸過迄』が一番好きです。これは稿を改めて語りましょう。
として、『こゝろ』で十全に発揮されていなかった持ち味とはなんじゃいと。一言で、「深い悲しさを含んだ切れ味のいい詩」だと思うのです。漱石先生は小説家以前に俳人であったことを思い出してください。長編よりも、新潮さんで言うと『文鳥・夢十夜』に収まってるスケッチっぽい短編のほうが、書きやすそうに書いてる感じがします。てゆうか『猫』も『彼岸過迄』も『行人』も、今の言葉で言えば連作短編集みたいなものだし、『こゝろ』もそうする構想だったんですよね。そして独立した長編にするつもりだったらしい『明暗』あたりは構成に頼りないものがある。というようなことから、Eauoi的には夏目漱石は短編を得意としたと言い切ってしまいます。とか言ってる一方で「倫敦塔」も「二百十日」も読んでないのは内緒です。新潮さんぐらいさっさと揃えろって話ですが。
で、なんせ、「文鳥」です。これ名作です。冒頭から省略の多い短い文が続きますが、この含蓄ね。「舞姫」とかとどこが違うんでしょうね。空間が広いんでしょうか。「片附けた顔」とか「頬杖で支え」とか「と云う返事であった」とか、人が物に見えてる言いかたが疲労を感じさせます。そこにもってきて三重吉の最初の台詞、鍵括弧なしで「鳥を御飼いなさい」なんて、会話がこの一言から始まったはずはありませんから、読者は「いろいろ省略されて要点だけになってるんだな。省略されたところには先生の精神衛生を気遣う弟子の優しさが含まれていたはずだ」と想像を膨らませる。必ずその方向に行くというのは、まあ鳥を飼うって内容だけでもそうですが、虚子が『猫』を書かせたいきさつを連想するってこともあるんでしょうね。私小説全否定論者のEauoiですが、現代の読者なら『猫』のことは知ってしまっていて、「文鳥」を読めば連想してしまうっていうのは、しょうがないです。知らないふりするほうに無理がある。と例によって定まらないことをつぶやいてみます。なんせ「文鳥」は漱石先生の疲労した冷たい石のような心にですね、文鳥がほんのちょっと働きかけて、でも舞台が明るくなりそうなところであっさり死んでしまう、この一幕の劇の悲しさが、余白の多い文章によって余すところなく語られている。これが漱石先生の持ち味だと。思うのです。かつこれはEauoiの言う「悲しさ」の定義を与えると思っていただいても結構でしょう。片付かない感情、か弱い生物、見えたかと思えば去る光明、偶然の転機、そして世界が何事もなかったかのように動き続けていくこと。そんな要素が、「文鳥」のように組み合わさったところに、Eauoiが「悲しさ」と呼ぶ感情が生まれます。
併録の中では「思い出す事など」(お勧め度:17、難易度:中)がいいですね。カテゴリー的にはエッセイとか回想録ってことになりましょうか。「文鳥」同様に含蓄の深い文章で、やはり悲しさに満ちた詩情が綴られている。また長編ではどうも曇ったり迷ったりしがちだった先生の知性がきわめてクリアに現れている点で、貴重なテクストでもあります。
いつもの代表作寸評は『彼岸過迄』の稿に回しましょう。おやすみなさい。
お勧め度:20
難易度:中
このへんEauoiの選び方がはっきり出てると申しますか、「ま〜たやってるよ飽きないねえ」とお思いの方もいらっしゃるかとは思いますが、だってこう云うのが好きなんだから仕方ないじゃありませんか、貴方。
平成の御世にあって、日本近代文学の大元締めは夏目漱石ということになっており、夏目漱石の代表作は『こゝろ』(お勧め度:15、難易度:易)ということになっております。まあ、理由のないことではないのです。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『虞美人草』あたりの大ヒット。芥川龍之介を筆頭に、中勘助、内田百痢∋田寅彦などなど存在感おびただしい門下生を世に送り出したこと。そして誰も疑う余地のない英文学漢学国文学書画骨董の広大無辺な教養、豊かな語彙を縦横無尽に駆使した色鮮やかな文章、小説においては人物の陰影深い造形、染みとおった知性、繊細な感情、ひたむきな倫理観。どのひとつとして、夏目漱石が一流の書き手であることを裏切りはしません。そして『こゝろ』は漱石の長編のなかでは最も構成が鮮明であり、文章が透明であり、テーマが自明に語られた、完成度の高い作品と言ってよいでしょう。しかし、『こゝろ』に漱石の持ち味が十分出ているかと問うなら、否と答えざるをえません。いったい『こゝろ』の文章を褒める人は、もともとが鷗外党なんじゃないかと思います。『こゝろ』の文章、いいんですけど、鷗外みたいな文章なんですよ。簡潔明瞭で曖昧な部分がない。と言えば聞こえはいいですが、曖昧にならざるをえない部分を削ぎ落とすことによって明瞭に見せるという、鷗外の悪いところを受け継いでるような感じがいくぶんあります。そして「先生」があまりに自分のことしか考えてなくて、先生とKで取り合いになった舞台裏はまったく知らされることなく罰だの償いだのと翻弄される奥さんこそいい面の皮だという批判も完全に正しい。このあたり想像するに、漱石先生は自分の小説が完成されたものとして書かれることを期待していなかったのではないかと思います。つまり何か語りたいテーマがあって、結論を出してからそこに向かうように全体を設計するのではなくて、書き進みながら考えて、結末が来てしまったらそれが結論になる。思考実験に近いと申しましょうか、考えるために書いたんだろうなという感じ、このあたりの長編にはかなり匂います。そして晩年の芥川と同様、晩年の漱石は体力の限界によって作品の限界を規定されていたようです。と言うか『猫』の時点で既に、親友子規を失って気力の衰えること甚だしかった金之助先生を見かねた虚子が「気晴らしに面白おかしい小説でも書いてみては?」と勧めたという、つまり力尽きる寸前のところから漱石の文学は始まってるんです。体調が上向きのときは気分も上向きになったかもしれませんが、消耗と衰弱の気配はキャリアのほとんど全部を薄雲のように覆っています。ギャグ漫画のはずの『猫』にしてからがそうなのです。それが『こゝろ』にあっては、これどうも、「俺はこんなにひどいエゴイストで、妻のお前には散々苦しい目を見せてきた。この上は首でも吊るしか償いようを思いつかない」という妻鏡子さんに向けた気持ちが出ちゃってるんじゃないかと思いますがどうですかね。力尽きると現実の身の回りのことにしか考えが及ばなくなるってパターンは、アクティーにも太宰にもありました。
何ですか、例によって話が迷走していますが、つまり『こゝろ』が代表作と言われると首が傾くんです。よく言われる前期三部作と後期三部作では『彼岸過迄』が一番好きです。これは稿を改めて語りましょう。
として、『こゝろ』で十全に発揮されていなかった持ち味とはなんじゃいと。一言で、「深い悲しさを含んだ切れ味のいい詩」だと思うのです。漱石先生は小説家以前に俳人であったことを思い出してください。長編よりも、新潮さんで言うと『文鳥・夢十夜』に収まってるスケッチっぽい短編のほうが、書きやすそうに書いてる感じがします。てゆうか『猫』も『彼岸過迄』も『行人』も、今の言葉で言えば連作短編集みたいなものだし、『こゝろ』もそうする構想だったんですよね。そして独立した長編にするつもりだったらしい『明暗』あたりは構成に頼りないものがある。というようなことから、Eauoi的には夏目漱石は短編を得意としたと言い切ってしまいます。とか言ってる一方で「倫敦塔」も「二百十日」も読んでないのは内緒です。新潮さんぐらいさっさと揃えろって話ですが。
で、なんせ、「文鳥」です。これ名作です。冒頭から省略の多い短い文が続きますが、この含蓄ね。「舞姫」とかとどこが違うんでしょうね。空間が広いんでしょうか。「片附けた顔」とか「頬杖で支え」とか「と云う返事であった」とか、人が物に見えてる言いかたが疲労を感じさせます。そこにもってきて三重吉の最初の台詞、鍵括弧なしで「鳥を御飼いなさい」なんて、会話がこの一言から始まったはずはありませんから、読者は「いろいろ省略されて要点だけになってるんだな。省略されたところには先生の精神衛生を気遣う弟子の優しさが含まれていたはずだ」と想像を膨らませる。必ずその方向に行くというのは、まあ鳥を飼うって内容だけでもそうですが、虚子が『猫』を書かせたいきさつを連想するってこともあるんでしょうね。私小説全否定論者のEauoiですが、現代の読者なら『猫』のことは知ってしまっていて、「文鳥」を読めば連想してしまうっていうのは、しょうがないです。知らないふりするほうに無理がある。と例によって定まらないことをつぶやいてみます。なんせ「文鳥」は漱石先生の疲労した冷たい石のような心にですね、文鳥がほんのちょっと働きかけて、でも舞台が明るくなりそうなところであっさり死んでしまう、この一幕の劇の悲しさが、余白の多い文章によって余すところなく語られている。これが漱石先生の持ち味だと。思うのです。かつこれはEauoiの言う「悲しさ」の定義を与えると思っていただいても結構でしょう。片付かない感情、か弱い生物、見えたかと思えば去る光明、偶然の転機、そして世界が何事もなかったかのように動き続けていくこと。そんな要素が、「文鳥」のように組み合わさったところに、Eauoiが「悲しさ」と呼ぶ感情が生まれます。
併録の中では「思い出す事など」(お勧め度:17、難易度:中)がいいですね。カテゴリー的にはエッセイとか回想録ってことになりましょうか。「文鳥」同様に含蓄の深い文章で、やはり悲しさに満ちた詩情が綴られている。また長編ではどうも曇ったり迷ったりしがちだった先生の知性がきわめてクリアに現れている点で、貴重なテクストでもあります。
いつもの代表作寸評は『彼岸過迄』の稿に回しましょう。おやすみなさい。
2009年04月22日(水) 03:13:16 Modified by ID:nm2RBtSGow
