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悲しみよ こんにちは

ここ1年ほどのEauoiを代表するような読書になりました。ある世代の人には涙が出るほど懐かしく恥ずかしいと思われるフランソワーズ・サガンのデビュー作。

お勧め度:18
難易度:中

サガンは学生のころ『優しい関係』を読んでちっとも面白くなかったので敬遠していましたが、田辺聖子さんに加えて青山七恵さんにまで勧められては考え直さないわけにいきません。少女文法をだいぶ覚えてきた感覚もありましたので、鳴り物入りの代表作を手に取ってみたのです。

冒頭の数ページは、『優しい関係』のときの印象を繰りかえすように思われました。文章が下手。説明が下手。思ったことを順序よく伝えようという意志が、ないとは言わないまでも薄い。なので考えることがひとりよがり。「母が死んで父と二人で暮らす娘」とか、「下品で頭の悪い父の愛人」とか、「色黒で知性の足りない恋人」とか、ねちっこく少女少女した述語を恥ずかしげもなく振り回して勝手に酔う。学生のころのEauoiが、そこまでで「面白くなる余地なし」と判断したのも無理はないと思わせます。サガンが流行ってたころ、主に男性から「あんなのくだらない」という見かたが強かったのも、そういう理由でしょう。

こういう耽美型の小説は、読者が作家の思惑通り酔えるかどうかにほとんどすべてを懸けています。なので、作家の思惑に想定された酔いかたを読者が知らなければ、面白く感じられることはありえません。「文鳥」だろうと「地獄変」だろうと同じことです。なので、好きな人と嫌いな人がはっきり分かれる。では、「嫌い」と思った小説の面白さを知るにはどうすればいいのか。これは酒を覚えるのと同じことで、初めのうちはまずいまずいと思いながら何度も、手を変え品を変え、飲んでみるしかない。むしろそれでだいたいわかるようになるのが、人体に備わった恩恵であって、詩人と読者の幸運だと言うべきでしょう。

『悲しみよ』で言うと、新潮文庫の背表紙にある紹介文がほぼ完全に面白がるべきポイントを伝えています。絞って言えば「父の再婚を妨害するのも、アンヌが自殺するのも、私の思いのままなのよ!」という、い・け・な・い全能感。清志郎さんのご冥福をお祈り申し上げます。Eauoiがこれを認識するまでには、
  • 全能感が何より大事。
  • 学校で教わるような道徳は、破られるためにある。
  • 学校で褒められるような人は、たとえ学校の嫌らしさがなかったとしても、「褒められそう」というだけで敵。
  • 同じ理由で、頭がいい人も敵。
  • 道徳を破っても、自分が悪いとは思いたくない。
  • なので、犠牲者には、そうなっても仕方ないと言い訳できる口実を与えておく。
などという大衆文法と、
  • お父さん好き。
  • お母さん不要。
  • 結婚は人生最大の問題。
  • 自分がマリー・アントワネットだと思いたい。
というあたりの少女文法とを知らねばなりませんでした。思えば遠くへ来たもんだ。最後の「マリー・アントワネット」は私の中でうまい名前がついてないのですが、内訳は「人からちやほやされる身分で、いつも全能感に満たされていて、難しいことや嫌なことを考えることがなくて、食べるのはおいしくて高いもので、着るものはひらひらふわふわして高いもので、ベッドに天蓋」というようなことです。最後の食べる着るベッドは例示とか象徴ではなく文字通りの意味です。「おいしい」食べ物もおいしさを追求してはいけません。現実の読者の舌で言う「おいしさ」です。マリー・アントワネットは舌が肥えてるはずだとか考えてはいけません。またなぜか知りませんがフリルとベッドの天蓋は必須のようです。あ、あと西洋崇拝。貴族は貴族でも日本や中国やインドの貴族にはあまり感じない。そして西洋でも女が主役になれないといけないのでドイツ不可。フランスは最上。ただし実際のフランス人のように昼間からアムールの話なんてはしたない真似はしない。こういうことたちは思想でも詩でもなく約束事です。文法です。知って使いこなせるようにならないと話が始まらないのです。

と、一般論を言ってるうちに『悲しみよ』の話が半分以上終わってしまった気がします。上の文法に沿って、非常に手際よく述語を配していることは一読されればわかると思います。しかしそれだけに終わっていないのが、手際のよさの「16」を超えて「18」に届いた所以でありまして、どこがと言われればたとえば、シリルとエルザをくっつけたように見せかけるところで、セシルが「私ったら何やってるんだろう?」と悶える心理。自分の嘘に自分が騙されかけ、仮にと想像しただけで私がこんなに苦しいんだから現実だと思わされる父の苦悩はいかほどか、と空想する。この全能感と背徳感がない交ぜになった陶酔は、Eauoiにも馴染みのあるものでした。そして「私が苦しんでいる」ことと「父が苦しむであろう」ことが表裏一体のものとして喜ばれている。サディズムとマゾヒズムはこのように同居するものです。サディストは無情な悪人ではありません。マゾヒストが喜ぶだろうと思って、その嬉しさを想像しながら、鞭をもって奉仕するのです。

マゾヒストと言えばの谷崎師匠で言うと、『痴人の愛』の譲治は、「人を踏みつけにするのは愉快なことだ」という感覚を我がこととしてよく知っているから、その愉快さをナオミにめいっぱい捧げようと思えるのです。またその愉快さのために必要な、人を踏みつける行為を、自分が実行してしまうのには倫理観から抵抗がありますから、一応は「悪い子だ」と言ってしまえるナオミに託して、自分の代わりに人を踏ませるのです。つまり譲治は踏まれながら自分を踏んでいるのです。この主語が好き勝手に行き来する、自分と相手が半ば溶け合ったような感覚を伴うからこそ、サディズム/マゾヒズムは性愛に近しいのです。

『悲しみよ』で言うと、セシルは父の心をおもんぱかって、「本当はアンヌなんて学校側の女と結婚したくないんでしょ?」と勝手に信じ、学校側の生活によろめいて目がくらんでいる父に代わり、父にとってより切り離しがたいものを守ってやっているのです。そのために自分の恋人を、芝居とはいえ、ほかの女に近づけるという犠牲を払って。

このへん読んでると、おせいさんが「人の心の機微がある」と仰るのもうなずける気がします。ただ頭が悪くて説明下手なので雑然とした羅列を出るものにはなりえないのですが。

あと何ですかね、セシルの父ね。エルザからアンヌに乗り換えるとき、「なんで?」ってくらい理由なくコロッと転がりますね。井上荒野さんもよく、光晴パパに端を発するらしい男性キャラに、こういうことさせますね。どうも「理由なくコロッ」が男の魅力と感じられているらしい節があります。ただほかに似た例が思い浮かばず、周りの文法とどういう兼ね合いになってるのかEauoi的にまだ落ち着いてないので、今後の読書の課題になると思います。はい。
2009年06月05日(金) 21:56:16 Modified by eauoi